悲劇はいつだって起こるし、本物のストーリーなんてこんなもんだ

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松葉杖を使いながら彼女と一緒

「何となく、ひとつに固執する人だね、君は。」
「人生をドブに捨てててもいい、譲れない何かをもっているように思えます。」
精神科のドクターに言われているのを看護師の私は聞いていた。

ここから彼から届いた手紙を書き移した。


普通の人たちは、結婚して子供を作り、趣味を持ち、それは、言ってみれば、生きる道を見つけられないから結婚生活をうそで過ごしていると思う。

私の心をゆさぶる快感は、人を満足させる技術とアイディア。その快感を得たいために、いつも「こだわり」を大切にして、その気力を保つための手段をつねに模索している。

おかげで、ある程度の評価と名声を手に入れた。

だが、「こだわり」のために、他の物はすべて失った。

家の留守を守り、キスで出迎えてくれる女性もいない。こうなったら望んではいけない夢だ。さらに、神はオレに(松葉)杖を授け、鬱(うつ)病という試練を与えた。

私は、現在、鬱(うつ)に陥り、「心のケア」がいかに難しいかを痛感している。病気や怪我は、手術や薬、リハビリで徐々に治っていく。でも、長年にわたって心に受けた傷は、自分で乗り越えるまでなかなか治るものではない。

天性の仕事「歯科技工士」を奪われた人生を揺るがす交通事故

もし、自分のしていることがその道の専門家(私の場合は精神科の医師)に、「今の仕事は、もうやめなさい、あきらめなさい。」と言われたらどうしますか?

誰だってショックを隠せないほど相手の言葉を疑いたくなります。精魂をかけ、身を粉にして取り組んできたことなら、なおさら簡単にやめることはできないでしょう。

仮にそう言われたとして、「その仕事とこだわり」を投げ出したとしても、すべてを放棄する必要はないと思います。

そんなふうに思うまでに至ったのには、こんな経緯があります。

私は、郷里の不良養成高校を卒業後、専門学校を経て歯科技工士となったのち、独立、スタッフを何人も抱え25年ほど歯科技工所を経営していました。

私の技工へのモチベーションは、「患者が喜んでくれる」ではありませんでした。私の生きがいは、歯科医院から注文される、歯の詰め物、差し歯など補綴(ほてつ)物を、想像やアイディアを駆使し、試行錯誤しながら完成まで至ることなのです。

25年以上歯科技工士として、仕事だけの生活を送り、頭の中は「仕事」だけの状態でした。自宅に帰るのは週に2度程度、毎日仕事場で仮眠をとり、徹夜作業で仕事に没頭してきました。

他の誰よりも質のよい物をつくる。天然の歯と作った歯、どちらが本物なのか?見分けがつかないほどの「こだわり」をもって仕事に向かいつづけ、評価を得ていたのです。言ってしまえば、「患者なんてどうでもいい。」あくまでも。作成する過程が楽しく「私そのもの」になれる時間でした。

私の人生を変えた交通事故の瞬間は、今でも鮮明に覚えています

平成18年7月19日を時計の針が越えた瞬間に、居眠り運転者に正面衝突をされ、一時は生死をさまよう重態に陥りました。

入院中は、まさに「この世の生き地獄」、自分の名前も言えない状態になり、回復後にはリハビリを1年近く続けることになりました。

さらに、事故の影響で眼底出血を起こしたせいで、物を鮮明に見えない状態になり、ミクロ単位で行う歯科技工の仕事は、どうしたってできません。

今まで築いてきたものすべてが失われ、歩くのもままならなくなり、…生きるための「生きがい」がなくなり、経済的不安にくわえて、すべてに対してやる気が消失してしまったのです。

大腿骨複雑骨折の写真

しかし、リハビリ病棟に出向き足が切断されている患者や、顎関節骨折の患者のゆがんだ顔を見ると、「オレは、こんなことで落ち込むなんて、まだまだ不良品だ。」、と思ったものです。

病気と戦わなければいけない辛さ、慣れない入院生活の辛さ。そして、自分の体が思うようにならないというフラストレーションは、回想するだけでも胸が苦しくなります。

「こだわり」を捨てられないのは不幸だ

今、一番頭を悩ませるのが、定期的に襲ってくる鬱(うつ)状態。これも、私の捨てきれない「こだわり」が大きな要因だと感じています。そこで考えました。

歯科技工へのこだわりを捨てたとしても、補綴(ほてつ)物を作成することは続けていくことができます。

たとえ、自分が作った補綴(ほてつ)物が、患者さんに使われなかったとしても、“物作り”の楽しみまでなくなってしまうわけではありません。好きだから、楽しいからやっているのなら、そのまま続けていけばいいでしょう。

しかし、「人から賞賛されたい」とか「常に一流でいなければならない」というプライドがあることで、「こだわり」を捨てられなくしています。

単なる楽しみ、趣味としてやっているなら、ヘタだろうと上手だろうと気にしなくてもいいですが、一流をつらぬくべきという「こだわり」を捨て切れなかったせいで、自分へのどうしようもない苛立ちを抱える結果となってしまったのです。

楽しむ感覚はなく、「ここまで続けてきたんだから」と意地になるほど、「これしかないんだ」と、これまで以上にしがみつくようになり・・・。そして、いつしか「これをやめたら自分じゃなくなるのではないか」そんな恐怖から鬱(うつ)状態になったのです。

楽しみながらできる趣味があるというのは、生きていく上で良いストレス発散にもなるしステキなこと。たとえ、望むような名声やお金は得られなくても「まあいいか」と思えます。

ただ、上を目指してがむしゃらに頑張るのもいいけれど、純粋に楽しむことにも目を向けられれば、より素晴らしい人生を変わるでしょう。

とはいえ、現実はそんな甘いものではなかった

物事から意図的に注意や意識をそらすし、困難な状況から目をそむけ、不安から逃れようとします。それよりも、どうしても「先立つお金」、生活をするための経済的な心配がつきまとってきます。

そんな状況で、安いメンタルヘルスの本にあるような「理想的な言葉」を並べて見ても、心に響くわけありません。

結局、私は「こだわり」を捨てることができませんでした。

絶頂だったの過去の時代を続けていきたかったのです。そして、あきらめたら幸せになれない、自分ではなくなると考えていました。

「今の自分ではなくなるなど、とうてい受け入れられない。」

しかし、冷静に考えていくと、あきらめること、うんぬんよりも、人は皆平等ではなく、生まれながら不幸を背負って生きている方がいます。さらには、ひとつの仕事に精一杯努力しているのに、小さな目標にも達することができない人もいます。

私は、「人は同権だけれど平等でない」ことを疑いの余地なく信じています

今までの私は、歯科技工が天性の仕事だと信じていて、技工がヘタならばやめればいいし、他に自分に合う仕事を探せばよいとさえ思っていました。しかし、事故に遭い、後遺症を抱える身となった今はどうでしょう。

また、私は「夢に執着しすぎる人は不幸」だと思います。

「夢は、しょせん夢」

夢を持つことも夢に向かって努力することも自由ですが、それは、歳を重ねるほど「夢は、しょせん夢でしかない」と気づくでしょう。

いわば、夢は叶わないと気づくまで、人生を楽しむ方法のひとつに過ぎません。

現実的な目標をかかげなければ、つまらない無駄な時間を費やすだけです。目標を持てないなら、あきらめて他の方法を探せばいい。ひとつの生き方に執着して、自分を縛りつけても幸せを感じることはできません。

夢をあきらめたことで、幸せを見つけた人もたくさんいます。自分が幸せを感じられない生き方をしているのなら、別の生き方を探して身を移せばいいのです。

「こうじゃなければ幸せになれない」なんてルールはありません。上手にあきらめながら自分にとって最適な生き方をすることで、あなたにとって幸せな生き方へと繋がるはずだと思います。

あきらめるのも才能のひとつだ!

子どもの時に植え込まれた考えが大人になってからも根強く残っているせいか、何かを途中でやめたり、やることを変えることを逃げだと感じる人が少なくありません。

確かに何もしないであきらめてばかりいたんじゃ、それは癖になってしまいます。

しかし、それが鬱(うつ)の原因になったり、自分を追い込むことに繋がってしまう時だってあります。だからそうなる前に、周囲が「あきらめなさい」と言ってあげるのも優しさではないでしょうか?

「あんたには無理だから、あきらめなさい!」

そう言ってくれる人がいるのは、すごく大事だと思います。その上であきらめるかあきらめないかは、自分自身で選択することができるのですから。

「自分に才能がない」

と認めるのは勇気がいります。誰だって、自分に才能がないって気づくのは怖いもの。

「もう少し努力したら夢が叶うんじゃないか?」

そうやって続けたところで生まれる新しい才能などまったくなかったりして・・・。

他人の成功談を見聞きして

「自分も努力したら夢が叶う」と考えてしまいがちですが、

正確には、“努力したら叶う夢もある”です。

それは、裏返せば“努力しても叶わない夢もある”ということになります。しかし、多くの人は夢のある話を聞きたいと思い、こうした現実的な話には耳を塞ごうとします。

でも、現実には叶わない夢があふれかえっているでしょう。だから、あきらめを敗北とするのではなく受容することが大切なのです。自分には向いていない夢はあきらめて、次へと進む。そういう潔い人は“あきらめる才能”を持っています。

そう、この「あきらめる才能」が、自分の新たな道を切り開いてくれるのです。

もちろん、夢を叶えたいと本気で思っているのなら、ある程度はやり続けるのが大事なのはわかります。でも、自分の心が苦しいと悲鳴をあげているのに、それに気づかないで周囲の人が「それは甘えだ」なんて言うと、その人の精神と身体はいっそう追い込まれることになるでしょう。

だから、そうならないように事実を無視したり、何事もなかったかのように振る舞うのではなく、現実としっかり向き合った上であきらめることが大切。求めたものが得られないという挫折の中でも、あきらめることで新たなものを見つけることができれば、希望も必ず生まれるはずだから。

あきらめるとは無報酬に対する適切な行動を選択すること!

あきらめる才能を持つのは決して恥ずかしいことではありません。

「死ぬ思い」をしても何も変わらない!?

愛用の松葉杖

私は、事故とツライ入院生活という経験にある意味期待をしていました。

「死ぬ思いをすれば何かが変わる」と思っていたのです。

しかし、実際は何も変わらない。

極論をいえば、「死ぬことですべてが変わる」ことを初めて気づいたのです。「尊厳をもって生きていこう」、「自分から死のうしないようにしよう」と思うようにしていました。

担当してくれた看護師さんは、そういった私の辛い気持ちをくみ取って、少しでも気持ちを和らげられるよう、励ましながらケアしてくれました。とても気遣いのよい看護師気遣いのよい看護師さんだったことも、幸運だったと思います。

入院時に、二つだけ気付いたことがあります

一つは、鬱(うつ)状態だと、誰かの「言葉」の力が、プラスにもマイナスにも精神にいかに大きく影響するかということ。

私が瀕死の状態で見舞いに来た友人が、冗談めかして

「オマエ、死ぬときは、皆から愛されるんだゼ!」

と言った、この言葉に愛情を感じずにいられませんでした。

二つめは、手足が不自由になることよりも、言葉が不自由になることの方が、精神的に参ってしまうという、すでに鬱状態なら、なおさらその負荷が大きいということ。

喋ろうとしても言葉が出てこない、自分の伝えたいことが伝わらないことは怒りになる。人が普段意識もせずに機能するものだからこそ、いざそれが使えなくなったときのショックは想像するより大きいのです。

ここまで、読み進んだ方は、「大げさすぎやしないか?」「あまりにもセンチメンタルな気分で、いや、ハイになって書いているのではないのか?」と思うかもしれません。

 

「悲劇はいつだって起こるし、本物のストーリーなんてこんなもんだ。」

 

これは、実際に経験して、初めてしみじみと分かるものなのです。私は、信仰心など一切ないのですが、このときばかりは、親不孝峠に何度も登頂した私に亡くなった親父が試練を与えたと思いました。

不思議なことが一つありました

事故に遭わされた相手には、一切の憎しみや怒りがないことです。
それは、今でも変わらないどころか、感謝さえおぼえるもので、本当に不思議なのです。

それは、たぶん父親からの課題でしょう。

「誠実を偽ってでも試練を乗り越えなければ、生きることができない」

つまり、“甘ちゃん”ってことなのサ。

ひのき(檜)の香りは一時的にいやされる

幼いころから、田舎育ちで四季のにおいや、草花のにおいでその時期がわかる。
つまり、郷愁を感じるのです。

そんな中、ひのきの香りはとても大好きなのです。

「そうだ、見舞いに来た友人にひのきの棺おけを特別にオーダーしてもらおう」

いや、彼が先に逝くかもしれない….。

最後に

交通事故、うつになって失ったものは、とても大きいのです。

世の中で1番大切なものは「家族だ!」
家族の強い支えがあってこそ、 強く生きられます。

自分のことを本当に大切にしようとするなら、必ず家族も大切にするということに私は気づきました

「もう遅い!」

しかし、気づいたからこそ、人生は本当につらく厳しいものだとつくづくと感じています。
そして、事情を抱えながら平然と生きていくのです。

 

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