看護学をもっと理解してほしい!看護学を無視する医者

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看護学を知るべき医師

さて、なにゆえに医者は手がかかるのでしょうか。あるいは看護師さんの手を煩わせるのでしょうか。それは医者は医学というあまり役に立たない理屈だけしか知らないからです。そもそも学問などというものは、実践では役に立ちません。医者は患者さんの気持ちを知りません。医者は患者さんの話を聞こうともしません。

医者は困っている患者さんにどう声をかけたらいいかを知りません。つまり医者は看護を知らないのです。看護師には医学を勉強するように強要しながら、自分では「看護」という医療の実践手段を学ぼうとしません。「そんなもん教えてもらわんでもはじめから知っとるわい!」ということなのでしょうか。

にもかかわらず、医者は医療の現場で偉そうにしています。「医学を勉強した」ということで、どうして一般社会の人たちがひれ伏す水戸黄門の印籠のような権力をもつことができるのでしょうか。

見直すべき医者の資格

医学は学問です。文学とか法学とかと同じです。学問とはおしなべて実社会ではそのまま役には立たないものです。というより、単なるオタクの一人よがりとも言えます。好奇心を満たすことは人生の一つの楽しみ方で、非常に重要です。しかしそれは特定の集団や個人の中でとどめておくべきことです。

「経済学者が皆お金持ちではない」という事実を考えると、学問とは社会の役には立たないもので、怪しいものだと言えるかもしれません。文学を勉強したらすぐに作家になって本を書いて食えるのでしょうか?・そんなことは絶対にないでしょう。本を書いて食べている人が文学部を卒業しているとは限らないし、ほんの一部の人たちが「食える」だけの本を書いているというのが現実だからです。

法学も同じです。法学部を卒業したらすぐに弁護士になれるのでしょうか。そんなことはありません。法学部を卒業したあと法科大学院に入って、みっちり鍛えられてやつと弁護士になれます。それも二人に一人。

医者も看護学を勉強すること

医学という学問だけが勉強すればすぐ医者になれるというのは、どうにもこうにもおかしな話です。というか無理があります。たとえば、戦時中で怪我人が大勢いるので医者と名がつけば何でもいい、急場しのぎに医者みたいなのがたくさん必要だ、という状況ならば「アリ」かもしれませんが、今の日本はそんな状況ではありません。

医者だけが「医学」という、実践とはかけ離れた学問を学んだだけで、医者の資格を得てしまうというのは誰が考えてもおかしい気がします。
医者としての実践力をつけるのに手っ取り早いのは、医者も看護学を勉強することです(アリャ?・「看護学」も学問だぞ―)。

看護師に甘んじるな!

入院患者の重症度や治療状況ごとに提供される看護の内容・量・時間を指標化した看護必要度は、2010年まで10年余のあいだに一気に開発・普及が進んだ。

この制度開発のさきがけとなったのは、のちに要介護度認定基準につながった介護度である。看護必要度の適用は、世界的に難しさが語られてきた看護内容や量のデータ化の実行である。

看護職自身が看護を量的に再確認することができる

これは、社会から看護への理解を得る手段の一つにもなる。

しかし、医療費節約の目的で、状況に応じたぎりぎりの人員配置をする必要に迫られての診療報酬がらみの取り組みとなったため、財政不安のある施設側としては生き残り作戦にあわてて参戦するような格好となり、評価項目とくにB項目の見直しの必要性や評価指導者の育成や看護記録の負担増、膨大な評価データを活用しきれていない、急性期だから人員が多く必要であるという発想への疑間、などなどの問題点や課題が見えつつある。

看護師は、人数が少ないなら少ないなりのケア、多ければ多いなりのケアを行ってきた。たとえば、ぎりぎりの人数での勤務中に予期せぬ患者の変化があり、そこに手が集中すれば、予防的ケアや緊急度の低いケアはやむをえず見送るなどして、なんとか看護をつないできた。

また逆に、わずかにできる時間的余裕に一体なにができるのか、そこに看護師の力量があらわれるとして、日々取り組んできたのである。看護必要度は今後、調整。検討が重ねられて充実に向かうと思われる。

看護必要度開発の経緯

上記のルールを留意しながら、病棟の看護師が全患者分の看護必要度を定時にチェック・入力してデータ集積を行っている。

メリット、課題、問題点が明確になる

医師は看護師必要度が増すばかり

装着したゴム手袋が察知してケアの内容が記録される、看護用品が使われると自動的に記録されるなど記録負担の軽減策が開発されたり、何かしら斬新な価値観及び視点によって看護必要度の新しい物差しが生まれる可能性もある。

いずれにしても、看護必要度に取り組む過程において、評価項目やそのための看護記録を意識し続けることで、どうしてもそれ以外への目配せが薄くなり、いざ、わずかでも時間的余裕が生まれた際にアイデアが生まれにくい、あるいは創造性に欠けるなど看護の質への影響を及ぼすおそれがないとは言えない。

看護職は、看護の質への評価によって衿持が保たれる。将来は、幾通りもの看護の質の評価基準も開発され、三塁(看護必要度)と質を合わせて看護が評価されていく方向が、看護職の仕事への意欲と希望を高めると思われる。

こんな状況を正常に戻すには、誰かが、役に立たない医学の見解だけで自分の責任は果たされるものと考えている医者を、医療としての認識とともに看護師とのコミニュケーションを図らなければ質の良い医療には、てが届かない上体がつづきます。

できない看護師とできない医師

え~んどうしよ―大丈夫よ、ボクちゃんそうなると真っ先に職を失うのは私かもしれませんが、誰かがやらなければ、日本中の病院はダメ男と縁の切れないような、ダメ医者のお世話をすることにアイデンテイテイーを見出してしまう″ダメドク・ダメ看護師〃が蔓延する自虐劇場と化してしまっているのです。

看護師自己責任の象徴

社会はある部分で大きく変わっています。都心では結婚するカップルが形式的にでも仲人を立てる披露宴は一パーセント程度になったといいます。職場の上司が人生の先輩であるという考え方がなくなっているのです。終身雇用制度が消滅したためでしょう。年金が破綻しそうで、郵政の民営化、公的病院はすべて廃止か独立行政法人に。

これらは自己責任と民力の時代の象徴でしょう。医療の現場だけでなく、社会全体が個人と組織とのかかわりについて、そして個人が社会をどう捉えるべきか、大きく揺れ動いている昨今ではないでしょうか。自分が一つの商品としてどのように社会とかかわっていくか、社会にどう売り込めるのか。このテーマを皆が考えなければならない時代になったと思います。

最近、病院のランキング本の売れ行きが好調のようです。つまり、社会は「病院や医者にはピンからキリまである」ということに気がついたのです。もうすぐ「看護師にもピンからキリまである」ということに気がつく時代が来るでしょう。それは、自己啓発のモチベーションをもっているかどうかがしっかり評価される時代でもあります。

そこで、どうしてもここで申し述べたい、看護師世界の悲しい現実があります。それは自らの専門性を徹底的に否定して、「看護師の仕事など誰でもできる」と自らの価値をおとしめているという現実です。

看護師さん、心臓手術をなめてんのか!

数年前、ある市民病院に心臓手術の指導にお招きいただいたとき、「心臓手術をなめてんのか!」と叫びたい瞬間がありました。

手術をサポートする看護師

看護師は仕事の価値をおとしめている

当日は人工心肺装置を使わない冠状動脈バイパス手術をやってほしい、ということで新幹線に乗ってその病院に出向きました。内胸動脈グラフトが準備できてさあ吻合、という段になって、私の傍らについた直接介助の看護師は丁息ついて壁のほうを見ています。肝心の術野を覗き込もうとしません。

挙句の果てに、手術室看護師長が入ってきて「あら、あなた、お昼ご飯は何にする?」と私のとなりで一息ついている直接介助の看護師に昼食の出前の注文を聞いているのです。まるで、野球を見に行って同点で迎えた九回の裏、ワンアウト一。三塁、バッターは四番、ボールカウントはワンストライク・スリーボール、というときに「さあ、ビールを買いに行こう」と席を立つようなものです。

目を離す看護師

一番肝心の冠状動脈の吻合にあたり、「どうだ、格好いいだろう―」と術者として最もフェロモンが出る瞬間を看護師さんに近くで見ていてほしい、という願望がなかつたわけではありませんが、とにかく冠状動脈と内胸動脈グラフトを縫い合わせるというバイパス手術の佳境中の佳境、その瞬間から目を離してしまう看護師さんは日ごろはどういうお仕事をされているのでしょうか。

大変お気の毒に思いました。冠状動脈バイパス手術の意味をまったく理解していないのか、あるいは日ごろのその病院での手術の方針が「看護師なんか知らんでいい」という軽蔑したものなのか、どちらかでしょう。

「この病院では手術がなめられている」と感じた次第です。また、別の病院でも同じく、心臓を動かしたままのバイパス手術、ということでお招きいただきました。手術の始まる前に手術室の看護師長から「まぁ、先生、遠いところへようこそお越しいただきました」とご丁寧なご挨拶をいただいたのはよかったのですが、「ところで申し訳ありませんが―手洗い(直接介助)に入る看護師は心臓外科の手術は今日が初めてなんです。よろしくお願いします」とお願いされてしまいました。

目が点になるとはまさにこのこと。心臓外科手術の直接介助など誰にでもできる簡単なこと、ということなのでしょうか。それとも「人が足りない状況で、おそらく地球人類史上、一番忙しく働いている自分たちなのだから致し方ない」という大義名分を看護師長は胸に秘めていたのでしょうか。いずれにしてもちょっと間違えれば執刀医は人殺しになってしまうという心臓外科手術も完全になめられたものです。

看護師自身で仕事の価値を落としていいる

どうでしょうか。このような姿勢は、実は看護師の仕事の価値を自分たちでおとしめていることにはならないでしょうか。看護師のやっていることは誰にでもできること、今日初めてやる人でも簡単にできてしまうこと、と自分たちで認めているのです。

「失敗の積み重ねの末に会得できる、それも希望した十人が十人とも達することができるわけではない巧(たくみ) の領域としての看護技術」、という認識とは程遠いものである、と自ら認めていることになるのです。

医者の力量

実は医者の力量についてもこれまで同じようなことが行われてきました。大学病院という特殊なカルト集団は、手術などの臨床能力の価値を完全に無視し、自分たちの社会的存在価値を否定している人たちです。

「手術などアホでもできる。大事なのは論文を書くことだ」「手術ができない奴でもたまたま症例の多い病院に行くとそのうちできるようになる」と強弁している大学教授が数多くいます。この発想は、自分たちがやっている手術は誰でも見よう見まねですぐにできるようになる簡単なものだ、という自己否定であることに気がつかないようです。

これでは病院の中のいったい誰が「すばらしい手術だ!やっぱりうちの心臓外科医はすごい!」と実力を認め、一日置くでしょうか。これまで日本の大学医局は「心臓手術?・あんなもん誰でもできまんがな―」と経験のない医者を日本中の病院にばら撒いて、自分たちの存在価値を自分たちでおとしめてきたのです。

ちなみに私はというと、よほど無能なのでしょう。大学のエライ教授先生が「誰でもできる~」とバカにしている手術で毎日苦しんでいます。いつの手術でも反省しきり。一度たりとも完璧な手術ができたことはありません。

看護師の目線

看護師さんはいつもの病棟での業務で、バカな医者が心無い言動で患者さんを地獄の底に突き落とす様を見て、それを反面教師として、「絶対に患者さんに言ってはならないこと」を数多く学んでいると思います。

それと同様に、自分の専門性を徹底的に否定し、誰からも信頼されなくなるような医者の行為を反面教師として、絶対に真似してはなりません。

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