患者を看る者は幻想に惑わされず未知のパワーを味方にせよ

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患者の観察を記する看護師

手術は大成功だ!患者はICUに収容された。心臓の動きは思いのほか好調だ。出血もない。肺動脈圧は低く、アウト・プットも良好。面会の家族がぞろぞろとやってきた。「一番上が心電図です。乱れもなく、規則正しい。次の赤い線が血圧。ばっちりです」

患者のかたわらのモニター画面を指差して家族に説明する。家族がぞろぞろとICUから出て行った。″一件落着!〃とかっこよく決まったその瞬間、看護師が耳打ちした。
「センセイが説明していたのは隣の患者さんのモニターですよ!」

モニターの落とし穴

患者さんの状態を知るうえでモニターは大切です。しかし、そのモニターに示されているものが何かを、よく理解していないと、とんでもない目に会うことがあります。心臓手術の後など、モニター類は多種多様。なかでもスワンガンツカテーテルは心拍出量が数分間隔で自動的に測定され、表示されるのはいいのですが、たまに無茶苦茶に高かったり低かったり。「うっそ~」という値が出るとどう解釈していいか、本当に厄介です。

動脈圧モニターも同様です。撓骨動脈に留置したカテーテルの尖端から直接血圧を測定するという原理ですが、測定の基準になる部分の高さが同じでなければ正確な値は測定されません。測定の基準になる部分はトランスデューサーと呼ばれている小さな装置ですが、この装置が固定されている高さを変えれば、測定される血圧の値はいかようにでも変化します。

どういう原理で何をどう測っているのか。大まかに原理を知っておく必要があります。

必要な感覚はいくつ?

でも大切なことは、日の前の患者さんを実際の目で見て、手で触らてみて、その他いろいろな情報を「五感」すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚で感じる。これがプロです。

こんなことを言うと、いかにもわかったようなわからないような。実に″偉そうな″言い方です。「患者の状態は五感で掌握すべし!」などと言えば誰も否定はできません。小学校の道徳の時間に習う「正論」です。じゃあ具体的にどうするのって、誰もなかなかうまく説明できません。

それにこれらの五感とは別の、第六感、というのも大事でしょう。

「この患者さん、やばいんとちゃう?・うまく説明できないけど…」などという場合は、まあ勘というか、フィーリングというか、においというか、『気』というか。中国の道教で言えば、患者さんを包んでいる周辺の空間「道」のゆがみを感じているのでしょうか。スターウオーズのヨーダに言わせれば「フォースを感じろ」ということになりましようか。

不思議な第六感体験

ユングという心理学の基礎を築いた人物は「共時性」という概念を提唱しました。″何かが起こる″とあらかじめ感じとれるなど、合理的には説明できない何らかの感覚を人間は感じることができる、というものです。皆さんもそんな体験はおもちでしょう。

いくつか私の実体験を紹介しましよう。私は常日頃からアホな冗談を会話の中で一つは入れないと気がすまない、という大阪の風土病に感染している人間です。

単なる偶然と解釈?

笑顔で医師を見る看護師

ある日、外来診療の合間にある事務職員が「明日からしばらく田舎に帰ってきます」と何気なく挨拶をしました。私は冗談のつもりで「へえ、いとこのミユキちゃんの結婚式に出るの?」と返したら彼女の顔色がサッと変わりました。

「何で知ってるんですか?」

田舎に帰る理由がいとこの結婚式だということは誰にも伝えていないし、ましてや新婦の名前が「ミュキ」であることなど、誰も知らないはずだつたからです。周囲の人も含め、しばらく絶句というか、次の言葉が出てきませんでした。なぜ、私の頭にこの事務職員の「いとこのミユキちゃん」という名前が浮かんだのでしょうか。

単なる偶然と理解していいものなのでしょうか。もう一つ不思議な体験です。

ある日のこと、私は自分の部屋で手術の報告書を書いていました。人工弁を使った僧帽弁手術の患者さんでした。使用した人工弁の製品名を、ワープロで「モザイク」と打ち込んだ瞬間です。部屋の中では看護師さん同士がまったく関係のない話をしていたのですが、突然、「だからあ、それはぁ、モザイク」と言ったのです。

「えっ―・今なんて言ったの?」と私は振り向いて叫んでしまいました。二人が話していた会話の内容を聞きただしましたが、「モザイク」などという言葉は絶対に出てこない、日常の会話でした。当人も「なぜそう言ったのかわからない、突然頭に浮かんできた」ということでした。

実はさらにもう一つ、偶然な話があります。

地方のある病院の院長から「優秀な心臓外科医を探しているのだが、誰か心当たりはないか?」という相談を受けました。そこで私は、ちょっと前まで近くの病院にいた、元気がよくて性格のいい若い心臓外科医を思い出しました。彼はその後、北関東の脳神経外科病院に移ったということでした。インターネットで探し当て、そこの病院に電話をしてみると、その日は研究日で東京にいるとのこと。私は、日を改めて電話することにしました。

しかしその日の夜、私のもとに当人から「大和成和病院で手術を見学したい」というメールが送られてきたのです。てっきり私が電話を入れたことを病院の職員から聞いて連絡してきたのだろう、と思っていましたが事実は違いました。その日、彼はずっと東京にいて、私からの電話があったことなど誰からも聞いていなかったのです。

そういえば私も彼の病院に電話をしたとき、「電話があったことを伝えてほしい」などとは言わなかったし、「大和成和病院」とは出さず「南淵」としか名乗らなかったような気がします。そしてナブチという私の名前は、九十パーセントぐらいの確率で、よくて″マブチ″、普通は″ノグチ″と聞き間違われます。

そんな時はあえて訂正はせず、相手の好きな名前にしてもらつています。たまに″ナブチ″と正確に聞きとり、「あの悪名高い心臓外科業界の嫌われ者か」と認識する人もいないわけではありませんが、この時の電話に出た病院の職員も″ナブチ″とは認識できなかつたように記憶しています。

第六感

私はその若い心臓外科医とは三年前に一度会つただけでした。その彼に初対面から三年経って、思いついて電話をした同じ日に、彼も私に思いついてメールを送ってきたのです。これが偶然なのでしょうか。偶然としたら恐ろしい偶然です。

我々には思いもよらない何かの方法で双方で意思の伝達が行われたのではないでしょうか。

コンテインジェント・システム?

こういった意識下の、あるいは言語などの道具によらないで生物間で情報伝達がなされる様を、「コンテインジェント・システム」と呼んでいるそうです。

さて、人間社会における、こういった現象、つまり、知らない間になぜか情報や考えが伝わる。後から考えれば「なるほど」という理由があったのですが、そのときは何かに憑かれたようにある一つの考えが頭の中を支配する、という現象は誰しも経験するものです。しかもICUではこういった力、つまり得体の知れない考えが頭の中にわいてきて支配するという現象はしばしば危機に瀕した患者の命を救うものです。

ICUに収容された患者さんがいました。大動脈弁置換術後の患者さんです。ドレーンからの出血は手術室からICUに入室してここ三時間、ほとんどゼロです。突然百三十三もあった血圧が九十に低下しました。

「何だろう?・患者さんは深く寝入ったのかな?」

そのほかに目立った異常は見あたりません。するとドレーンから真っ黒な血が出始めました。

「黒い血だ。静脈からの出血に決まっている」

こういう場合、胸骨の裏から静脈性の出血がじわじわと続くことがあります。一方で、大動脈弁置換術を行った患者で一番起こってもらつて困るのは、大動脈を切開した部分からの出血です。大動脈弁置換術では心臓と大動脈がつながっているすぐ近く、上行大動脈を横に切り、その空間から左心室を覗き込むように手術します。

大動脈弁を取り去って人工弁を縫い付けたら、切開した大動脈を閉じなければなりません。大動脈弁の手術で大惨事が発生するとしたら、この部分なのです。大動脈の壁が弱くて脆くてどんなにていねいに縫ってもボロボロになってしまい、どうしようもなくなって人工血管で上行大動脈を置換しなければならなくなった、という惨事はしばしば訴訟になっているようです。

東北の病院では四十代の男性患者さんで、まったく問題なく終了したと思った大動脈弁置換術だったのに、後で上行大動脈から大出血してそのまま死亡した、という事例が裁判になっていました。

この患者さんの場合も、大動脈を閉じた部分から出血が始まるということはすなわち大惨事を意味します。縫ってすぐは問題がなかったのにしばらくして出血してきた、ということは「大動脈の壁が脆くて徐々に裂けてきた」ということであり、これがもし事実なら修復もものすごく困難であろう、ということになるのです。

「自分が手術した患者にそんなことが起こつたら大変だ!」という考えは、「そんなことは起こらないでくれ―」という強い願望になり、「起こるはずがない―」という希望的観測に変化し、「起きていない」という事実認識に発展します。

しかしこれは実際に起こっている事実とは関係のない、幻想が頭の中で展開しているに過ぎません。これまで多くの失敗を重ねてきた私は、頭の中でささやく声を聞きました。

『こらあかん!やばいがな!開けたほうがええでぇ。何か起こってるでぇ。何でかと言うと何かおかしいもん』

「……開けよう」

私のこの一言で手術室看護師、臨床工学技士、麻酔医、など全員が動き出しました。閉胸した胸をもう一度手術室で開いてみる、再開胸を行うということです。手術室はきれいに掃除が終わって明日の手術の準備は万全というところです。ここで再開胸をやるとなると大きな後戻りです。しかも「今日の仕事はこれで終わリー早く家に帰って月九を観よう!」と帰り仕度をしていた看護師、臨床工学技士、麻酔医の手を煩わせることになります。

しかし、スタッフの間では私という人間ではなく、「私の中でささやく声」に対する信頼は絶大です。この「私の中でささやく何か」に信頼がある限り、私は手術をさせてもらえるのです。ドレーンからの出血が多いのでは?・と認識されてからまだ一時間も経っていませんでした。しかし、誰も「出血の動向をもうちょつと観てみましょう」などとは言いません。

開けてみると案の定、というか、あろうことか、大動脈切開部分からの動脈性の出血が見つかりました。「あの時、再開胸を決断していなかったらどうなっていただろう…」と止血手術を手伝つてくれた医師たちはそら恐ろしく感じたと後で言っていました。

判断が十分遅れるだけでも患者さんは危険な状態になっていたでしょう。出血が動脈からのものであったにもかかわらず、ドレーンからの出血が真っ黒な血だったのは、出血部位からドレーンまでの距離があったためです。もし、「色が黒いから静脈からの出血に決まっている」と考えてドレーンからの出血の増減を一~二時間観ていたら、やがてドレーンからの出血は減少し、血液が心臓の周りに溜まり出し心タンポナーデになっていたでしょう。

血圧が低下し、心拍出量も低下するでしようが、血圧の低下は昇圧剤で対応できてしまいます。そして、動脈性出血には気づかれないままとなります。事実、この患者さんでも最初に血圧は下がっていたのですが、「たいしたものじゃない。寝入ったせいだろう」と判断していたのです。本当は体が出血という異常事態に反応して、末梢の動脈、つまり撓骨動脈を収縮させたせいだったのに。

また、心拍出量の低下が起こったとしても、「機械が壊れているんじゃないの?」とか「ボリューム入れて様子を見よう」という具合に対処してしまい、決定的に「こらあかん」という判断材料にはなりにくい場合が多いのです。

スピリチュアルケア

死に直面した人が感じる「自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛」がスピリチュアルペインであり、それを和らげるための試みが医療におけるスピリチュアルケアである。

はじめにスピリチュアルケアが注目されたのは、ホスピス運動の創始者といわれているイギリスの医師シシリー・ソンダースが「全人的ケア」を提唱した際で、彼女に学んだ日本の医師らは80年代前半に日本の病院にホスピスを開設した。

1996年には看護現象の国際的共通言語として構築された「看護実践分類(ICNP)」の中にも、看護介入の枠組みの言語として「霊的サポート(Spiritual support)」が盛り込まれた。

1998年には、WHO憲章改定案の「健康」の定義の中で「スピリチュアル」が示され、その和訳として「霊性」「精神性」があげられたが、結局はカタカナ表記の「スピリチュアル」が標準的となった。

概念としては「魂」が近いのでは

一般に「スピリチュアル」や「スピリチュアリティ」という単語には意味合いに幅があり、人によっては前世診断や瞑想、オカルトなどを連想する場合があることを承知しておく必要がある。

ゼロ年代当初、日本では宗教的要素とのかねあいなどスピリチュアルケアの定義に関する戸惑いの声がケアの実践家からあがり、その後、人間存在の3つの柱(時間性、関係性、自律性)へのケアを軸とする「村田理論」や、スピリチュアルの問題の根源は「和解の問題」に集約されるとして、自分との和解、周りの人との和解など5つの和解の考え方(窪寺俊之) などが紹介された。

2006年に看護師に行われたアンケート調査(「看護師のスピリチュアルケアのイメージと実践内容」、川崎医療福祉学会誌、445-450、V01 ・19、NO ・2、2010)では、スピリチュアルケアを「実践している」26.4%、「実践していない」73.6%、という結果が得られ、大半の看護師はスピリチュアルケアの実践までは至っていないことを明らかにした。

また、心理・精神的ケアとの区別の難しさ、理論を実践に落とし込む難しさなども考察で指摘している。人間存在の意味にかかわることは、たとえば文学ではすべてのテーマは存在の不安に集約されると言われるほどの人類にとつてひときわ難解な永遠の一大テーマである。

そのテーマに直結するスピリチュアルケアは、実践しづらいほうが自然とも言えるだろう。とはいえ、「多死社会」に突入し、今後スピリチュアルペインに接する頻度が高くなるであろう看護師が、対応の難しさによるストレスで燃え尽きてしまわないためにも、より実践的な検討は急務と言える。

鋭敏な感覚から生まれるスピリチュアルベインの訴え

スピリチュアルペインを定義したのは、村田理論で知られる村田久行(京都ノートルダム女子大学生活福祉文化学部教授)である。また、ターミナルケアを専門とする柏木哲夫氏は、死を間近にすると、それまで意識しないでいた感覚が非常に鋭敏になり、スピリチュアルペインとして表にあるようないろいろな疑問や思いが生まれてくるという。

スピリチュアルケアの道を示したシシリー・ソンダース

シシリー・ソンダースは、自身が1967年に開設したセント・クリストファー・ホスピスでの活動を通じて、身体的・精神的、社会的、霊的な側面からアプローチする全人的ケアを実践し、世界中に広めた。

特に末期で死を直前にした人は前述のスピリチュアルな痛みを抱くため、その痛みに対処する援助の重要性を訴えた。全人的ケアの根幹はスピリチュアルケアにあると言える。

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」(日本WHO協会訳)。

1998年、この定義に、固定した状態でないということを示す「そ3 ユo」、人間の尊厳の確保や生活の質を考える本質的なものを示す「dynamic」を付加するとの提案がなされた。

しかし、現行の定義が適切に機能していること、緊急性が低いことなどから採択されないままになっている。が、現状では「spiritual」が付加された健康の定義が広く認識されている。

まとめ

「患者さんは順調だ!」と信じ込みたい気持ちが強いと、モニターや検査結果で掌握できているつもりの「現実」は、自分の頭の中で描いた「幻想」に過ぎない場合があるのです。

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